テレビの光は全てアニメ

SF好きでミステリ好きですけど、そんなことは関係なしにアニメの感想を書いていくような感じのブログ

GODZILLAの芹沢博士についての一つの解釈

 先日、友人たちとレジェンダリー版GODZILLAを見に行った。これでこの映画を見たのは二回目ということになるのだが、当然ながら一回目に比べて二回目のほうがこの映画の全体像が鮮明に見えてきたように思える。

 一回目、この映画を見たときから、僕は「確かに傑作であるが、どこか不明瞭な部分がある。手放しで絶賛しにくい」とずっと思っていた。そしてその不明瞭な部分のせいでこの映画の全体像さえも曇らせているのではないかと。

 その不明瞭な部分がなんなのかといえば、芹沢博士の存在である。

 彼は果たしてこの映画にとって必要な存在なのだろうか? もちろん、ゴジラファンのためのサービスである可能性はある。しかし、それ以上に何か大きな意味を持ってこの映画に登場してはいないか、僕は考えていた。

 そしてようやく二回目のゴジラを見ることに成功した僕は、この芹沢博士存在意義が明確に見えるようになったと思ったわけである。

 注目したシーンはいくつかあるが、その中でも特に不可解かつ不明瞭なシーンは、芹沢博士がステンツ提督に広島原爆によって死亡した亡き父の形見である壊れた懐中時計を見せるシーンだろう。最初、僕はこれを核と結び付けて人類が再び大きな過ちを犯そうとしていることを芹沢博士が呼びかけようとしているのではと考えていた。しかし、だとすればそれは劇中で何度も博士が言っていることではないだろうか、わざわざ時間を割いてまで、わかりにくい表現を用いてまでこのシーンを撮る必要はあるだろうか。

 二回目を見た僕は、このシーンの解釈について大幅変更を求められた。

 芹沢博士はゴジラのことを「自然が生み出した脅威」とか「原子生命体の頂点」とか「自然の調和を守るためにやってきた」と語っている。つまりゴジラはこの地球にとっては神にも等しい存在であるし、また同時に自然を象ったものである。これは一回目にも気づいていたが、ゴジラの存在は天災の暗喩ということになると思う(というか、作中でそういうこと言ってるし)。

 で、なんでこのゴジラの存在意義の再確認を行ったかといえば、ゴジラ=自然ということは人間はその自然を傷つけようとしているということにもなるからだ。通常原爆は兵器であるから、人間や都市を標的にしているものであると認識される。しかし、考えてみればその都市や人間を支えているのは自然そのものだし、原爆はその自然ごと傷つけてしまった。

 芹沢博士が懐中時計を提督に見せたシーンというのはこういう意味があるように思われる。つまり、「人間は自然を傷つけてはならない」ということだ。そして、なぜ壊れた懐中時計を差し出したのかというのは、あの時と同じことを繰り返そうとしているという意味であると推測することができる。

 これで一応に芹沢博士の存在意義を説明することが可能になった。つまり「人間はあの時と同じように自然を傷つけてはならない」というのを原爆と結び付けるためのキャラクターである、と。

 だが、本当にこれだけなのだろうか? この程度のことなら映画では何度も説明できるし、わざわざ博士を用意しなくても表現することは可能だと思う。もっと彼に託された深い意味はないだろうか?

 鍵は特殊機関モナークにあると思われる。このモナークは1954年に出現したゴジラを記録観察し研究することを目的としている。もちろん、それ以外でも未知の生物を研究したりしているだろう、本作は(偶然なのかどうかは知らずに)MUTOの研究と観察を行っていた。

 ここについての意味も考えなくてはならないな、と僕は思った。空母サラトガで会議シーン、危害が加わることを知っていて研究をつづけたのかと質問するブロディ大尉に対してグレアム博士は「知らなかったのだ」と答える。このシーンである。

 このシーンにおいて芹沢博士は渋い表情を浮かべて佇んでいるだけだ。知っていたようにも見えるし、知らなかったようにも見える。あえてそういう演出をしたのだろう。しかし、重要なのは彼らがMUTOの危険性を認知していたかしていないかではなくて、MUTOが何かよくわからない巨大生物のはずであるのに、それを捕獲して拘留し観察し研究しようとした彼らの態度である。

 人類は知性を持ったその日から、探究心に満ち溢れた生命体である。ゆえに科学はここまで発展し、我々は利便性に満ち溢れた生活をしている。だが、時に触れなくてもいい知識や理論を開拓し、実用化してしまう癖もある。

 探究心を発展させた科学者が、よくわからない生物を捕獲して観察し続けるようなことは自然にとっては重大な罪なのかもしれない。探究心をもつことが時に自然を傷つける可能性があることを誰も否定することはできない。

 このような可能性を、この映画では「業」としてとらえることができる。探究心というプラスイメージの言葉を、怪獣という未知の生命体を出現させることによってそれをマイナスイメージに一転させる。

 探究心は時として人類の業として重くのしかかる。GODZILLAの真の狙いはここにあるのではないか?

 そのような人類の業を芹沢博士一人に託しているとするならば、博士の存在意義はこの映画でも最も重いものの一つになるだろうと思う。ゆえに、GODZILLAは手放しで称賛できる怪獣映画の傑作なのである。

うるセーックス! 青春なんてないんじゃ

 もうすでに女子高生というアカウント名を使い続けて長いが、ワシは男である。諸君も存じ上げているようにワシは現役男子高校生であるからして、阿呆な親戚やその他大勢のおなじ人類とは到底思えぬような狂った人間たちから「青春したら?」と、嘲笑混じりな助言を(頼んでもいないのに)吐かれるのである。

 うるセーックス! な~にが青春じゃゴミ共が。青春なんてセックス一辺倒やろが、なんや、ワレがセックスさせてくれるんか? おお? とワシは思うのであるが、諸君と違ってワシは賢いのでこれをぐっと堪えて「ああそうですね」と人畜無害を超えた釈迦に近い聖人になりきって答えるのである。

 青春とはイコールとして恋愛と語られることもある。もちろんソレ以外にも仲間と一緒に云々かんぬんとあるがワシはこういう性格なので仲間なんて当然おらん! 断言する! 私に友達なんていないんだもんねー! 大体友達とかいらねーし、何友達って? 上辺だけの付き合いでヘラヘラ笑って適当にやって適当に出来上がったものだろうが、バーカ! どうせお前ら十年後に合わないんだからそんなん仮初めの友情にしか過ぎないんだもねー! 僕ちゃんだって友達ぐらいいるもんねー!

 兎にも角にもワシは青春とは恋愛であると思うが、それは常に最終的着地点としてセックスにたどり着くのである。というより、女の方はいざしらず、男はセックスしか考えておらん! セックスという予め決められた目標に向かって一緒にえっせらこっせら走って行くマラソンが恋愛か?

 そんな不純なものはオレには認められねえぜ、そもそも恋愛の最終的着地点がセックスだからと言って恋愛はセックスと同義にして語っていいのか? セックスにたどり着くとしても、そこまでの過程には様々なものがあるし、そこで得た経験と感情は偽物じゃねえんだぜ。セックスはセックスだが、恋愛はセックスに至るまでの様々なものなんだぜ。

 胡散臭い! 胡散臭い! 恋愛とはセックスそのもの也! な~にがそこまでに至るまでの経験と感情じゃ、すべてはセックスに至るまでの道具に過ぎぬ! 大体セックスが不純ならセックスに至るまでのそれも全て不純で恋愛そのものが不純ではないか! この戦前モドキ糞野郎!

 セックスセックスセックスセックスセックスセックスセックスしたいんだ~(作詞:女子高生 作曲:女子高生)

 セックスセックスセックスセックスセックス恋愛とセックスは別物さ~(作詞:女子高生 作曲:女子高生)

 別物だとしても、恋愛とはセックスにいたるための道具にすぎぬというのはかわらないとおもいます。人々は性欲によってつき動かされる野じゅうなのです。

 れんあいがセックスにいたるための道具なら、なんでじゅんあいという言葉があるの?

 せっくすもまた、ふじゅんではないから。

 ふじゅんではないなら、それは、やじゅうというべきものじゃない。ひとびとのちえによってふるいおとされなかったりんりてききはんだ。せっくすもだいじだ。

 それはうそさ、ふじゅんではないものがなぜやじゅうてきなものではないといいきれる?

 ではこのよにおけるふじゅんとじゅんはなんでわけられる?

 そんなくべつにいみがないことにきづけ

 それはおかしい

 なぜ

 野獣死すべし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うるセーックス!

囀るという単語について━━あるいは稲穂の囀りという文について

 朝、もし今の時期にセミが鳴いていないようなら、鳥の囀るあの「チュンチュン」という音が聞こえるでしょう。非常に美しい音で、あれを聞くだけで癒されるという方もいらっしゃると思います。

 この囀るという単語の意味について、気になったので調べることにしました。手持ちの電子辞書に入っていた広辞苑明鏡国語辞典に依りますと、それぞれ「鳥がしきりに鳴き続ける」(広辞苑)・「小鳥がしきりに鳴く」(明鏡国語辞典)とあります。

 ここでふと思ったのですが、仮にこの二つの辞典の言う通りの意味であるとしたら「鳥が囀る」という文は二重表現となります。このことをTwitter上で呟いたところ、興味深い意見が寄せられました。つまり、稲穂の囀りという文には擬鳥法が成り立っているのではないか? と。

 注意せねばならないのは、この稲穂の囀りという文の意味についてです(ここでは分析哲学的な意味ではなく、我々が普段用いている「意味」です)。

 稲穂「の」囀りということに注目せねばなりません。つまり、「鳥がしきりに鳴き続けるような音が稲穂から発せられている」とより厳密に書きなおす事ができます。要するに、この文の対象は間違いなく「稲穂が発する音」であって稲穂自身ではありません。しかしながら、この文は「音」自体が擬鳥法の支配下に置かれていると考えられます。

 例えばこれが稲穂「が」囀るでしたら、厳密に書き直すと「鳥がしきりに鳴き続けるような音を稲穂が発している」となり、対象は稲穂自身に向けられるでしょう。つまり、この文においては「稲穂」自体に擬鳥法が適用されています。音ではありません。なぜかと言えば、鳥のような音を出す稲穂という意味ではなく、稲穂が鳥のようになることで囀るような音が聞こえるからです。

 少し前者の文を掘り下げてみましょう。

 通常、僕たちは何か音を発するときは音を発することが出来る何かを媒介します。楽器はその代表的な例ですが、他にも酔っ払ったおじさんが箸を更に叩きつけて軽快な音を出したり、ガラス製の何かを床や地面に落とした際には「ガシャーン」と音がなります。例はいくらでもあり、その全てをこのブログで説明することは不可能です(音自身も空気を媒介して我々に伝わるじゃないか、と思うかもしれませんが、ここでは音が発せられる際のことを説明してます)。

 では、前者の文も「音」というワードが使われている以上、明らかに何か媒介があって発せられています、それは説明するまでもなく「稲穂」なのですが、ここである疑問が脳裏をよぎります。

 「音」自身が鳥のようになることは可能なのでしょうか? 何か媒介があってから我々は音を知覚出来るのであるという先ほどの文章から類推すると、媒介=稲穂の存在なくして囀るような音は聞こえないわけです。つまり、媒介=対象=稲穂なくして音は発せられない以上、音は結果の一つにしか過ぎません。囀ることの出来るものがなければ、囀るような音は聞こえないのです。

 したがって、前者の文=「鳥がしきりに鳴き続けるような音を稲穂が発している」について「音」自体に擬鳥法が適用されていると判断するのは不適当です。ここで擬鳥法が適用されているのは稲穂なのです。

 では、前者の文と後者の文の意味は何が違うのでしょうか。「鳥がしきりに鳴き続けるような音が稲穂から発せられている」という文において擬鳥法が適用されている存在が「鳥がしきりに鳴き続けるような音を稲穂が発している」という文とおなじ「稲穂」であるならば、この問題にも答えなくてはならないでしょう。

 しかしこの問題は案外簡単に解決します。文章の中の修辞の相手が変わっても、対象は変化しないからです。つまり、引き続き前者の文は音を対象とし、後者の文は稲穂を対象としているからです。

 何故でしょうか。

 これは、この文に含まれる「を」と「が」の違いがあるからです。詳しくは調べてもらうとして、端的に説明しますと「を」というのは動作によって対象をとります。「僕が本を取る」というように、「本を取る」という動作によって「本」がたしかに対象をとられていますね。ここでは「音を(稲穂が)発している」という文において、発しているという動作によって音が対象にとられていることが確認できると思います。

 対して「が」というのは、「僕がやけどをする」という文のように、ある命題に対して成り立つものを対象とするわけです。ここにおいて「稲穂が(音を)発している」というのは、確かに稲穂を対象として成り立つ命題です。

 というわけで、こうして我々は稲穂の囀りという文における謎をひとつ解決することが出来ました。それにしても、一つの疑問によってここまでの分析を許容することが出来る「言葉」「文」というものは凄いものだと執筆中に感じました。

 まだまだ暑い日が続きますが、お互い頑張って行きましょう、ではまた。

ヤンキー議論について僕が憤っている二、三の事柄

 ご無沙汰しております、女子高生です。

 一ヶ月も更新を途絶させておりましたが、僕はその間も非常に元気に自室の中に引きこもり、アニメやら映画やら見ながら無駄に生活を送っていたわけで、そんな生活をしていればブログの記事にするものもあんまりなくなってしまうというわけで、こういう感じになってしまったわけです。

 で、当然今この記事を書いているというのはまあそれなりにブログでこのことについて書きたいなという感情が湧いて出てきたものであります。で、その感情の源泉は何かというと「ヤンキー」というものなのであります。

 僕は普段Twitterライフをそれなりに楽しんでいるので、フォロワーが今このことについて何をつぶやいているのかというのは気になるわけで、たまに特定のワードを検索ボックスに入力して検索していたりとかするんですけど、何やらフォロワーの内の二人がヤンキーについて議論を交わしていたようで(いたって友好的な雰囲気ではありましたが)、はーそうなんだーと思いながら眺めていたわけであります。

 まあTLにはそこそこひねくれた人が多いわけで、となると通常の感覚から逸脱した「ヤンキー」擁護が迸っておるわけですけど、え、ちょっと待ってくれない? と、それって少しおかしくない? とか思ったわけであります。

 そもそもヤンキーの定義とは一体何なのでしょう? もちろん我々は一般的にヤンキーという単語を聞いた際には深夜にコンビニの前でたむろしている偏差値の低そうな集団を思い浮かべるわけですけど、これって明確な定義って何かあります? 僕は寡聞にして知らないわけですけど、みなさん単にイメージだけでヤンキーを語ってない? とか思っちゃうのは、まあ皆さんに比べて僕の知能が劣っているからかもしれませんけど。

 まあTL上では学校のお勉強が出来ない文字通り偏差値が低く、更にコンビニ前でたむろしているという前時代的イメージがそのまま共通認識となっていたらしいですけど。納得出来ないのは、なんでお勉強が出来ずにコンビニ前でたむろするような連中が、そこそこお勉強も出来てあんまりヤンキー要素に比べて性格がいいみたいな論調なの? ってところであります。

 いやいやいや待ってくれよと、紛いなりにも勉強が中上位の人間で社会の規範を犯さないような奴らのが、相対的に見て性格がいいのは当たり前じゃん、それあなたの理想にしか過ぎないし、経験則にしか過ぎないよね? って、僕、思っちゃうんですよ。社会規範を破って深夜にコンビニの前でたむろしてソレ以外にも人様に迷惑をかけるような連中が性格いいわけないでしょうと、それはあなたにとっての性格がいいであって、しかもそれはあなたが群れの中にいたから感じただけでしょ?って

 群れの外にいる人間にとっては恐怖の対象でしかないわけで、中にいた人間が「ヤンキーは性格がいい」とか言ってもそれ全然説得力ないですから。これ、マジで。「ヤンキーに両義性がある」と言っても、中にいた人間にしか見えないような両義性に何か意味あります? あなたにとっては性格がいい存在であっても(しかもそれは幻想にしか過ぎないでしょうけど)、僕らにとっては(社会にとっては)性格が悪い存在ですから! とか、思っちゃうわけなんですよね。

 あなたに対してヤンキーが優しいからヤンキー批判を好きになれないってどういう理屈なんだよ! とか、最後の怒りを言語化して終わります。

今期アニメで僕が一番好きなもの

 夏アニメがそれぞれ出揃い、だいたいのところ二話~三話ぐらいを放送していると思う。今期は僕にしては珍しく数多くの作品を視聴しているので、そうすれば人間の性としてランキングを制定したくなる。ここでは僕が特に好んで視聴しているアニメを四本ほど挙げてその理由をのべて、最後に今期で一番好きなアニメを決めようかと思う。

 まずはじめは「月刊少女野崎くん」だ。今期はじめのころはノーチェックだったのだが、たまたま見たところそのあまりの面白さに仰天してしまった。調べてみると原作がかなり人気の作品らしく、なるほど確かに丁寧なアニメ化をすれば面白くなるな、といった感想を持った。

 この作品の素晴らしいところは、少女漫画的な設定を巧みに利用してギャグアニメとして成立させているところだ。あらすじの紹介は割愛するものの、病み付きになる登場人物達のボケとツッコミには僕の笑いのツボを刺激されて非常に楽しめている。また、少女漫画的な展開も用意されているだろうし、非常に注目すべきアニメだろう。あとみこりんが可愛い。

 次に「アカメが斬る!」。この作品、調べたところあんまり評判はよくないそうだが、実に面白く構成されていると思う。というのも、シリアスの中にギャグ、ギャグの中にシリアスというジャンル横断的なセリフや展開の構成、必殺仕事人的設定と展開、更に主人公の立場というのが非常にうまくミックスされていて、実に野心的な試みをしている作品であると思ったからだ。

 主人公が殺人に対して何の葛藤も持たないように、闇を討つという設定にしたのは非常に素晴らしかった。主人公が人を殺すときにはたいていうじうじとなりがちだが、この作品の主人公はそんなことを気にせずばっさばっさ殺してく。この爽快感はたまらない。今後もぜひ注目できるアニメだろう。あとマインちゃんが可愛い。

 三番目は「アルドノア・ゼロ」。今期アニメ開始前に最も話題となった作品のひとつだろう。脚本はすっかり有名人になってしまって説明の必要性がなくなった虚淵玄。監督は「喰霊-零-」「Fate/zero」「放浪息子」など数々の話題作を監督してきたあおきえい。音楽は「キルラキル」「機動戦士ガンダムUC」「進撃の巨人」の澤野弘之。このトリオを支える製作会社は数多くのヒット作を生み出してきたA-1Pictures。更に虚淵玄二度目となるロボットアニメで、しかもガルガンティアのようなものではなく、今度はガチガチの正統派ロボットアニメと来た。

 僕もすっかり期待して第一話を視聴したのだが、どうもしっくり来ない感じがした。主人公の感情を失ったとしか思えないぐらいの冷静ぶり。テロが起こるかもしれないの敵国でのうのうと凱旋。火星側があまりの超技術過ぎて地球側の勝ち目がないところ。こんなところが気になってきて真面目に見ることが出来なかったのだ。

 しかしながらさすがに虚淵玄ニトロプラス社長のでんじろうの言葉を信じて三話まで視聴したところ、先ほどの疑問のすべてが三話で解決したのである。詳しく書くとネタバレになってしまうのだが、いずれにせよ今後の展開が気になる作りになっていて目が離せない。あと韻子ちゃんが可愛い。

 最後に「残響のテロル」。こちらもスタッフで話題騒然となった。監督は「カウボーイビバップ」の渡辺信一郎。音楽は同じく「カウボーイビバップ」の菅野よう子。つまりカウボーイビパップのスタッフが再結集したということになる。

 期待に胸を膨らませて第一話を視聴した。丁寧な作画、好みのキャラデザ、意表を突く展開と謎を呼ぶキャラクター達の行動。一話としてはどれも極上の出来で、僕は非常に満足した。……のだが、第二話を視聴時に僅かな不安が胸をよぎった。少しご都合主義的展開が見えたのだ。詳しくはここでは書かないものの、シリアスもののアニメでこのミスは大丈夫なのか? と少し不安になったものだ。しかしながら、今期アニメの中でもそのクオリティはずば抜けているし、「アルドノア・ゼロ」と同じように巻き返してくるだろうから、現時点ではそこまで気にしなくともいいのかもしれない。なんにせよ、今期の中でもトップクラスに話題を呼ぶ作品であることは間違いないだろう。あとリサちゃん可愛い。

 

 今期のアニメはこの他にも沢山面白いアニメが存在する。で、僕みたいな一ファンがその中でも一番好きなのを決めるのは非常に勝手で僭越である。しかし、批判の嵐も恐れずに、2014年夏季アニメでもっとも好きなのを決めるとすれば、やはり「人生相談アニメーション『人生』」だろう。

 何より、キャラが可愛いし。

我々と艦娘と実在の軍艦の差異

 前々から気になっていたソーシャルゲーム艦隊これくしょん、所謂艦これを始めてみた。どうやらプレイヤ人数が多すぎて、サーバー開放日の新着順でしか始められないようで、かなり人気のゲームであることが伺える。

 なんといってもこのゲームの最大の特徴は、実在した戦前戦中の日本の軍艦を、最近流行りの萌え系イラストにし、それを実際に編隊して艦隊にしてしまうというところにあるだろう。なんとも恐れ入るな発想だが、これが普段からネットに常駐しているオタクユーザーの心を鷲掴み。あれよあれよとオタク人口に膾炙していった。

 そんな艦これを昨日初めて触ったのだが、実に魅力的な要素であふれているが、やはり目に入ってくるのはその美しいイラストだ。そして、実際に声を出して提督(つまり自分)に声をかけてきてくれるのだ! この感動、文字に表したら意味が不明だが、多くのソーシャルゲーム(僕が愛してたまらないアイドルマスターシンデレラガールズも残念ながらそうだが)は一部のレアな子たちにしか声が当てられてないのだ!

 しかし艦これでは、そんな僕の絶望を吹き飛ばしてくれる素晴らしいシステムを搭載している! 有名声優の方々が実際に、すべての軍艦に声をあてているのだ! 感動! これほどまでに感動したことなどゲームであろうか。

 だが、ふと考えてみると、あるおかしな違和感に気がついた。軍艦を艦娘たちにするということは、つまり軍艦そのものに意思を与えることだ(意思があることは艦娘たちの発言を読めば自ずと分かることである)。

 しかし彼女たちは軍艦である。軍艦でありながら意思が存在するというこの矛盾されたように思われるような個体を、艦娘と呼ぶ。

 彼女と我々の違いとは一体何であろうか。意思があり、人を愛し、喜怒哀楽をベースとした感情もあり、故に頭脳もあり、体も人間のそれをしている。これほどまで我々と一致している彼女たちとの、圧倒的な差はなにか。区分しているものはなにか。

 運命である。

 彼女たちが、軍艦として生まれ、そして戦い、傷つくことを覚悟せねばならぬ運命こそが、我々と彼女らを区別し、隔てている。彼女たちは我々にもなれないし、我々も彼女たちになれない。

 この壮絶な運命は、実在の軍艦も当然、同じである。しかし、彼女たちは軍艦とも違うのだ。前述しているように、彼女たちには意思がある。意思があるということはどういうことだろうか。言うまでもなく、彼女たちは彼女たちであることを運命づけられているということを受け入れているのだ。

 艦娘であるがゆえに、彼女たちは戦い、傷つき、相手を倒さねばならない。そして、それを受け入れねばならない。想像を絶する覚悟が彼女たちにはある。

 つまり、運命を受け入れているからこそ、彼女たちは実在の軍艦よりも更に過酷な運命を背負っているのだ。予め運命が決まっている者が意思を持つということの凄惨さを、艦これは描いているのかもしれない

死者の奢りを読んだ

 死者の奢りを読んだ。本当はこういう純文学とかに触れるのは各方面からツッコミがきそうだから感想を書くのさえ憚れるほどなのだが、一応これは自分の個人的なメモだと言い聞かせて、とりあえず感想を書くことにした。

 読んでいる中自分が注目したのは、劇中、<僕>が大学の附属病院前の坂を健康的に下っていくさい、少年と思われる人物と看護婦を見つけて、実に好意的な人物として(少年にとっては良き兄みたいな存在として)、少年の肩に軽く指をふれたら実はその少年は少年ではなく、中年の男性で、その中年の男性が<僕>をにらみつけていた。というシーンだ。

 このシーンは実にこの小説の象徴的なシーンの一つではないかと僕は思う。この直後の文章には、生きている人間は<僕>を拒絶し、故に<僕>は死者の世界に片足を突っ込んでいるのではないかみたいな感じで続いている。

 しかし、ここで着目したいのは、主人公たる<僕>が、実に健康的であるという描写が直前になされているというところである。(もちろん、先述した文章にもきちんと着目せねばなりません)

 健康的とは本文によれば、生命の感覚が体の中に充満している状態である。さて、生命の感覚、つまり今生きているというこの感覚は死者と向き合ってきた中で生まれたある希望であろうと思います。ゆえに、この場合において<僕>の希望とは、今生きているという感覚が充満していることではないかと思う。

 さて、ここで先ほどのシーンを見てみると、実にこれは希望から絶望への相転移が描かれているということが出来ると思います。生きているという感覚を持ち、ゆえに周囲に好意的に振る舞おうとする主人公が、実は死者の世界に足を踏み入れていて、だから少年と思われた人間は激高するというのはまさしく象徴だと思います。

 この象徴は、主人公に強烈なダメージをあたえたことは言うまでもありません、そして彼は、生きているということはこの不条理なことに付き合わされているということだということに、管理人との会話で半ば気付かされることになるのです。

 ここで、生者と死者のじつに不条理な関係が浮き彫りになります。生者は生きているが、生きてるからこそ希望を持ち、そして不条理になっていく。死者は死んでいるが、死んでいるからこそ完全な物となり、条理にそっている。

 この歪んだ関係こそが、この小説を面白くさせている要因ではないかと読み終わって考えました。

 最後に、もう一人、女学生についても触れねばならないでしょう。

 彼女は妊娠しています。そして、お金を稼ぐために(手術をするために)彼女はこの奇妙なアルバイトに参加しています。劇中、彼女は主人公たる<僕>に、妊娠することによってのしかかるおもしを説明するのです。

 これは完璧な絶望だと思われます。つまり、生者が生きながらにして、また新たな生者を身ごもったがために、絶望を持たずにはいられないのです。そして、一番の絶望は、彼女が身籠る男の子を流産しようとしたら、彼女自身に責任が生じるということです。

 これはなんとも身勝手です。しかしながらじつに(彼女自身にとっては)条理の通った絶望です。やはりここでも、女学生という存在を使いながら、希望と絶望の不条理な関係を描写していることがわかります。

 最後に彼女は出産します。そして、主人公に臭う、と言い放って出て行くよう懇願します。主人公も女学生の臭いを感じていましたが、それを言葉にはせずおとなしく出ていきます。

 主人公<僕>と女学生。その二人がなんの臭いを放っていたのかは自明です。では、主人公と女学生の違いとは何だったのでしょうか。

 最後の文が、一番印象的でした。