テレビの光は全てアニメ

SF好きでミステリ好きですけど、そんなことは関係なしにアニメの感想を書いていくような感じのブログ

死者の奢りを読んだ

 死者の奢りを読んだ。本当はこういう純文学とかに触れるのは各方面からツッコミがきそうだから感想を書くのさえ憚れるほどなのだが、一応これは自分の個人的なメモだと言い聞かせて、とりあえず感想を書くことにした。

 読んでいる中自分が注目したのは、劇中、<僕>が大学の附属病院前の坂を健康的に下っていくさい、少年と思われる人物と看護婦を見つけて、実に好意的な人物として(少年にとっては良き兄みたいな存在として)、少年の肩に軽く指をふれたら実はその少年は少年ではなく、中年の男性で、その中年の男性が<僕>をにらみつけていた。というシーンだ。

 このシーンは実にこの小説の象徴的なシーンの一つではないかと僕は思う。この直後の文章には、生きている人間は<僕>を拒絶し、故に<僕>は死者の世界に片足を突っ込んでいるのではないかみたいな感じで続いている。

 しかし、ここで着目したいのは、主人公たる<僕>が、実に健康的であるという描写が直前になされているというところである。(もちろん、先述した文章にもきちんと着目せねばなりません)

 健康的とは本文によれば、生命の感覚が体の中に充満している状態である。さて、生命の感覚、つまり今生きているというこの感覚は死者と向き合ってきた中で生まれたある希望であろうと思います。ゆえに、この場合において<僕>の希望とは、今生きているという感覚が充満していることではないかと思う。

 さて、ここで先ほどのシーンを見てみると、実にこれは希望から絶望への相転移が描かれているということが出来ると思います。生きているという感覚を持ち、ゆえに周囲に好意的に振る舞おうとする主人公が、実は死者の世界に足を踏み入れていて、だから少年と思われた人間は激高するというのはまさしく象徴だと思います。

 この象徴は、主人公に強烈なダメージをあたえたことは言うまでもありません、そして彼は、生きているということはこの不条理なことに付き合わされているということだということに、管理人との会話で半ば気付かされることになるのです。

 ここで、生者と死者のじつに不条理な関係が浮き彫りになります。生者は生きているが、生きてるからこそ希望を持ち、そして不条理になっていく。死者は死んでいるが、死んでいるからこそ完全な物となり、条理にそっている。

 この歪んだ関係こそが、この小説を面白くさせている要因ではないかと読み終わって考えました。

 最後に、もう一人、女学生についても触れねばならないでしょう。

 彼女は妊娠しています。そして、お金を稼ぐために(手術をするために)彼女はこの奇妙なアルバイトに参加しています。劇中、彼女は主人公たる<僕>に、妊娠することによってのしかかるおもしを説明するのです。

 これは完璧な絶望だと思われます。つまり、生者が生きながらにして、また新たな生者を身ごもったがために、絶望を持たずにはいられないのです。そして、一番の絶望は、彼女が身籠る男の子を流産しようとしたら、彼女自身に責任が生じるということです。

 これはなんとも身勝手です。しかしながらじつに(彼女自身にとっては)条理の通った絶望です。やはりここでも、女学生という存在を使いながら、希望と絶望の不条理な関係を描写していることがわかります。

 最後に彼女は出産します。そして、主人公に臭う、と言い放って出て行くよう懇願します。主人公も女学生の臭いを感じていましたが、それを言葉にはせずおとなしく出ていきます。

 主人公<僕>と女学生。その二人がなんの臭いを放っていたのかは自明です。では、主人公と女学生の違いとは何だったのでしょうか。

 最後の文が、一番印象的でした。