テレビの光は全てアニメ

SF好きでミステリ好きですけど、そんなことは関係なしにアニメの感想を書いていくような感じのブログ

GODZILLAの芹沢博士についての一つの解釈

 先日、友人たちとレジェンダリー版GODZILLAを見に行った。これでこの映画を見たのは二回目ということになるのだが、当然ながら一回目に比べて二回目のほうがこの映画の全体像が鮮明に見えてきたように思える。

 一回目、この映画を見たときから、僕は「確かに傑作であるが、どこか不明瞭な部分がある。手放しで絶賛しにくい」とずっと思っていた。そしてその不明瞭な部分のせいでこの映画の全体像さえも曇らせているのではないかと。

 その不明瞭な部分がなんなのかといえば、芹沢博士の存在である。

 彼は果たしてこの映画にとって必要な存在なのだろうか? もちろん、ゴジラファンのためのサービスである可能性はある。しかし、それ以上に何か大きな意味を持ってこの映画に登場してはいないか、僕は考えていた。

 そしてようやく二回目のゴジラを見ることに成功した僕は、この芹沢博士存在意義が明確に見えるようになったと思ったわけである。

 注目したシーンはいくつかあるが、その中でも特に不可解かつ不明瞭なシーンは、芹沢博士がステンツ提督に広島原爆によって死亡した亡き父の形見である壊れた懐中時計を見せるシーンだろう。最初、僕はこれを核と結び付けて人類が再び大きな過ちを犯そうとしていることを芹沢博士が呼びかけようとしているのではと考えていた。しかし、だとすればそれは劇中で何度も博士が言っていることではないだろうか、わざわざ時間を割いてまで、わかりにくい表現を用いてまでこのシーンを撮る必要はあるだろうか。

 二回目を見た僕は、このシーンの解釈について大幅変更を求められた。

 芹沢博士はゴジラのことを「自然が生み出した脅威」とか「原子生命体の頂点」とか「自然の調和を守るためにやってきた」と語っている。つまりゴジラはこの地球にとっては神にも等しい存在であるし、また同時に自然を象ったものである。これは一回目にも気づいていたが、ゴジラの存在は天災の暗喩ということになると思う(というか、作中でそういうこと言ってるし)。

 で、なんでこのゴジラの存在意義の再確認を行ったかといえば、ゴジラ=自然ということは人間はその自然を傷つけようとしているということにもなるからだ。通常原爆は兵器であるから、人間や都市を標的にしているものであると認識される。しかし、考えてみればその都市や人間を支えているのは自然そのものだし、原爆はその自然ごと傷つけてしまった。

 芹沢博士が懐中時計を提督に見せたシーンというのはこういう意味があるように思われる。つまり、「人間は自然を傷つけてはならない」ということだ。そして、なぜ壊れた懐中時計を差し出したのかというのは、あの時と同じことを繰り返そうとしているという意味であると推測することができる。

 これで一応に芹沢博士の存在意義を説明することが可能になった。つまり「人間はあの時と同じように自然を傷つけてはならない」というのを原爆と結び付けるためのキャラクターである、と。

 だが、本当にこれだけなのだろうか? この程度のことなら映画では何度も説明できるし、わざわざ博士を用意しなくても表現することは可能だと思う。もっと彼に託された深い意味はないだろうか?

 鍵は特殊機関モナークにあると思われる。このモナークは1954年に出現したゴジラを記録観察し研究することを目的としている。もちろん、それ以外でも未知の生物を研究したりしているだろう、本作は(偶然なのかどうかは知らずに)MUTOの研究と観察を行っていた。

 ここについての意味も考えなくてはならないな、と僕は思った。空母サラトガで会議シーン、危害が加わることを知っていて研究をつづけたのかと質問するブロディ大尉に対してグレアム博士は「知らなかったのだ」と答える。このシーンである。

 このシーンにおいて芹沢博士は渋い表情を浮かべて佇んでいるだけだ。知っていたようにも見えるし、知らなかったようにも見える。あえてそういう演出をしたのだろう。しかし、重要なのは彼らがMUTOの危険性を認知していたかしていないかではなくて、MUTOが何かよくわからない巨大生物のはずであるのに、それを捕獲して拘留し観察し研究しようとした彼らの態度である。

 人類は知性を持ったその日から、探究心に満ち溢れた生命体である。ゆえに科学はここまで発展し、我々は利便性に満ち溢れた生活をしている。だが、時に触れなくてもいい知識や理論を開拓し、実用化してしまう癖もある。

 探究心を発展させた科学者が、よくわからない生物を捕獲して観察し続けるようなことは自然にとっては重大な罪なのかもしれない。探究心をもつことが時に自然を傷つける可能性があることを誰も否定することはできない。

 このような可能性を、この映画では「業」としてとらえることができる。探究心というプラスイメージの言葉を、怪獣という未知の生命体を出現させることによってそれをマイナスイメージに一転させる。

 探究心は時として人類の業として重くのしかかる。GODZILLAの真の狙いはここにあるのではないか?

 そのような人類の業を芹沢博士一人に託しているとするならば、博士の存在意義はこの映画でも最も重いものの一つになるだろうと思う。ゆえに、GODZILLAは手放しで称賛できる怪獣映画の傑作なのである。