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SF好きでミステリ好きですけど、そんなことは関係なしにアニメの感想を書いていくような感じのブログ

囀るという単語について━━あるいは稲穂の囀りという文について

 朝、もし今の時期にセミが鳴いていないようなら、鳥の囀るあの「チュンチュン」という音が聞こえるでしょう。非常に美しい音で、あれを聞くだけで癒されるという方もいらっしゃると思います。

 この囀るという単語の意味について、気になったので調べることにしました。手持ちの電子辞書に入っていた広辞苑明鏡国語辞典に依りますと、それぞれ「鳥がしきりに鳴き続ける」(広辞苑)・「小鳥がしきりに鳴く」(明鏡国語辞典)とあります。

 ここでふと思ったのですが、仮にこの二つの辞典の言う通りの意味であるとしたら「鳥が囀る」という文は二重表現となります。このことをTwitter上で呟いたところ、興味深い意見が寄せられました。つまり、稲穂の囀りという文には擬鳥法が成り立っているのではないか? と。

 注意せねばならないのは、この稲穂の囀りという文の意味についてです(ここでは分析哲学的な意味ではなく、我々が普段用いている「意味」です)。

 稲穂「の」囀りということに注目せねばなりません。つまり、「鳥がしきりに鳴き続けるような音が稲穂から発せられている」とより厳密に書きなおす事ができます。要するに、この文の対象は間違いなく「稲穂が発する音」であって稲穂自身ではありません。しかしながら、この文は「音」自体が擬鳥法の支配下に置かれていると考えられます。

 例えばこれが稲穂「が」囀るでしたら、厳密に書き直すと「鳥がしきりに鳴き続けるような音を稲穂が発している」となり、対象は稲穂自身に向けられるでしょう。つまり、この文においては「稲穂」自体に擬鳥法が適用されています。音ではありません。なぜかと言えば、鳥のような音を出す稲穂という意味ではなく、稲穂が鳥のようになることで囀るような音が聞こえるからです。

 少し前者の文を掘り下げてみましょう。

 通常、僕たちは何か音を発するときは音を発することが出来る何かを媒介します。楽器はその代表的な例ですが、他にも酔っ払ったおじさんが箸を更に叩きつけて軽快な音を出したり、ガラス製の何かを床や地面に落とした際には「ガシャーン」と音がなります。例はいくらでもあり、その全てをこのブログで説明することは不可能です(音自身も空気を媒介して我々に伝わるじゃないか、と思うかもしれませんが、ここでは音が発せられる際のことを説明してます)。

 では、前者の文も「音」というワードが使われている以上、明らかに何か媒介があって発せられています、それは説明するまでもなく「稲穂」なのですが、ここである疑問が脳裏をよぎります。

 「音」自身が鳥のようになることは可能なのでしょうか? 何か媒介があってから我々は音を知覚出来るのであるという先ほどの文章から類推すると、媒介=稲穂の存在なくして囀るような音は聞こえないわけです。つまり、媒介=対象=稲穂なくして音は発せられない以上、音は結果の一つにしか過ぎません。囀ることの出来るものがなければ、囀るような音は聞こえないのです。

 したがって、前者の文=「鳥がしきりに鳴き続けるような音を稲穂が発している」について「音」自体に擬鳥法が適用されていると判断するのは不適当です。ここで擬鳥法が適用されているのは稲穂なのです。

 では、前者の文と後者の文の意味は何が違うのでしょうか。「鳥がしきりに鳴き続けるような音が稲穂から発せられている」という文において擬鳥法が適用されている存在が「鳥がしきりに鳴き続けるような音を稲穂が発している」という文とおなじ「稲穂」であるならば、この問題にも答えなくてはならないでしょう。

 しかしこの問題は案外簡単に解決します。文章の中の修辞の相手が変わっても、対象は変化しないからです。つまり、引き続き前者の文は音を対象とし、後者の文は稲穂を対象としているからです。

 何故でしょうか。

 これは、この文に含まれる「を」と「が」の違いがあるからです。詳しくは調べてもらうとして、端的に説明しますと「を」というのは動作によって対象をとります。「僕が本を取る」というように、「本を取る」という動作によって「本」がたしかに対象をとられていますね。ここでは「音を(稲穂が)発している」という文において、発しているという動作によって音が対象にとられていることが確認できると思います。

 対して「が」というのは、「僕がやけどをする」という文のように、ある命題に対して成り立つものを対象とするわけです。ここにおいて「稲穂が(音を)発している」というのは、確かに稲穂を対象として成り立つ命題です。

 というわけで、こうして我々は稲穂の囀りという文における謎をひとつ解決することが出来ました。それにしても、一つの疑問によってここまでの分析を許容することが出来る「言葉」「文」というものは凄いものだと執筆中に感じました。

 まだまだ暑い日が続きますが、お互い頑張って行きましょう、ではまた。