テレビの光は全てアニメ

SF好きでミステリ好きですけど、そんなことは関係なしにアニメの感想を書いていくような感じのブログ

ゴジラVSデストロイアを見ながら考えたこと

 昔好きだったアニメや映画、または小説や漫画などを、時を経て再び見返したり読み返したりすると、急激につまらなくなってるという現象がよくある(もちろん、自分の中の話だ)。

 自分にとってのこれに当てはまるのが、「ゴジラVSデストロイア」だった。

 少し、あらすじを見てみると、これまでにないショッキングなゴジラ作品であることが分かるだろう。確かに、今までシリーズの怪獣では常に主役の座に座り続け、ある意味正義の味方と化していたゴジラが、その生命の死を迎えるというのはいささか子供にとってはショッキングである。

 自分はこれを見たのは確かケーブルテレビで偶々やっていたからと記憶しているが、なるほど確かに面白くショッキングな映画だと興奮したのを覚えている。

 しかし今日、その興奮を再び味わおうと思ってDVDを再生し、そして先述の現象を味わったわけであった。

 問題点をあげればキリがないが、しかし最大の問題点は「リアルなパニック映画に超能力を重要な要素として登場させること」にあるのではないかと思う。

 ゴジラは言わずもがなリアル志向のパニック映画だ(怪獣そのものがリアルではないというナンセンスな批判はおいておこう)。今回の映画でもリアリティは十二分にある映画に仕上がっているだろう。しかし、映画の重要な場面で超能力が登場する。

 自分は思わず声を出して呆れてしまった、超能力?

 これがもしSFホラーだったりしたらまだ許されるだろう(それでも自分は許せないが)、しかし、これはパニック映画。しかも今までずっと臨場感が溢れ、リアリティがあった映画である。

 そこに超能力。

 全くもって興ざめだ。こんなひどい脚本があるだろうか。いきなり作劇がチープになり、もはやなんのリアリティも臨場感も消え失せた。

 はっきり言ってこの映画に超能力というワードが出る時点でそれはもう駄作決定という烙印を押されたようなものである。親が子を殺すみたいなことを平気で製作者はしでかしているわけである。

 ところで、そんな映画にも非常にいいところがあった。ラストだ。

 ラスト、赤く発光するゴジラメルトダウンによって融解しあたりに大量の放射線が撒き散らされる。直後、いきなり放射線量が激減し、第二のゴジラが現れるのであった……。

 これはVSシリーズ最終作であるから、この第二のゴジラのその後は何ら知られてない。しかし、このラストシーンが我々に壮大な余韻を与えるのは、この映画が初代ゴジラを踏襲しているからであろう。

 初代ゴジラ、そのテーマは核兵器を作る/使う人類に対する警鐘であることは広く知られている。このテーマと、初代を踏襲しているという点を踏まえてラストシーンを見てみたら、また違う味わいを我々にもたらしてくれる。

 このラストシーンこそ、ゴジラシリーズを締めくくるにふさわしいラストシーンだろう。

 

ブレードランナーで一番すごいと思ったところ

 イギリスの有名な映画監督でリドリー・スコットという男がいる。この男は世界の中でもかなり有名な映画監督の一人で、かの傑作「エイリアン」を監督したことで広く知られている。

 その男の監督した作品の一つに「ブレードランナー」というものがある。原作はこれもまた有名なSF作家、P・K・ディックの代表作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」。この作品は前述した「エイリアン」と並ぶくらい有名な作品で(公開当初はあんまり売れなかったらしいけど)、かつ評価されてる作品だ。

 ブレードランナーのあらすじをざっと見てみよう。ブレードランナーは、主人公デッカードが、地球上に降り立ってきたロボット、所謂レプリカントを駆逐する物語である。わけわからんという人はwikipediaを見てください、どうせここから先は本編を見てないと意味不明なので。

 その凄さっていうのはよく語られる退廃的な未来だとか映像美というのではなくて(というよりSF映画作品だと未来とか映像がすごいとか言っていればなんとかなるって風潮がある。この二つはいわばマジックワード、SF映画だとどんな作品にも使える言葉だと思う)、「ラストシーン」にあるのだ。

 ラストシーンを思い出したい。デッカードとレイチェルが、彼が住んでいたホテルから逃げ出そうとするシーンである。レイチェルが先にエレベーターに乗り込み、デッカードは部屋の前の床においてあったユニコーンの折り紙をじっと眺めて、やがて握りつぶす。

 このシーンは今までの戦闘シーンと同じくらいか、またはそれ以上に緊迫感があるシーンだ。しかし、文字に起こすとナンノコッチャ。それも当然、突然現れてきたユニコーンには意味がある(というより、スコットほどの映画監督がなんの意味もなしにあんなシーンを撮るわけないですね)。

 劇中、デッカードが自身のホテルの部屋で、椅子に座りながら微睡んでいた時、ユニコーンの夢を見た。これはまったくもって意味不明なシーンです。しかしながら、どことなくラストのユニコーンの折り紙と握り潰すところと結びつきそうだということは誰にでもわかりますね。

 さて、ここのシーンを根拠に「ブレードランナーの主人公、デッカードレプリカントなのではないか」という説がどこからともなく発生しました。なぜなのか?ちょっとわからない。というよりさっぱりわからん。ユニコーンレプリカントはどのように結びつくのか。

 じつはユニコーンというのは非常に知性が高く、さらに生け捕りにするのがむずかしい(=殺さなければならない。生け捕りしても自殺する)生物と言われています。これはレプリカントの説明にもドンのピシャリで当てはまる。レプリカントの「象徴」の夢を見るデッカード。これはデッカードレプリカントであるということを示唆していると解釈することも可能だ。

 つまり、ユニコーンレプリカントの象徴であって、その象徴の夢をなぜか見てしまうデッカードは、もしかしたらレプリカントなのかもしれない(デッカード、劇中では実は人間としては驚異的な身体能力を発揮していますね)。

 さて、以上のことを踏まえてラストシーンをもう一度見てみよう。

 デッカードユニコーンの折り紙を「握り潰している」。これに違和感を覚えたのは自分だけではないだろう。デッカードレプリカントなのだとしたら、なぜデッカードユニコーンを握り潰しているのだろうか。

 これは、つまりデッカードレプリカントのレベルを「超越」した存在であるということを暗に示しているのではないだろうか。

 冷静に考えれば分かることである。レプリカントレプリカントを殺している。これは種全体から見れば自己矛盾の出来事である。レプリカントに感情が生まれ、人類そっくりになったからこそ出来る離れ業である。

 ということは、人類そっくりになった(というよりももう人類そのもの)デッカードは、レプリカントの範疇を容易に飛び越えたという解釈も成り立つのではないだろうか。

 最後に、ガフという名前について触れておきたい。

 ガフという名前、どこかで聞き覚えがあるだろう。そう、「ガフの部屋」の伝説ですね。ガフの部屋は魂の住む館という意味だ。魂の住む館、それをこの映画のレベルにまで範囲を縮めて考えれば、この映画におけるガフの部屋は「タイレル社」ということになる。ガフとタイレル社、デッカードレプリカント。そして、「ガフの部屋」の伝説。

 アンドロイドは電気筆の夢を見るか?

 ここで問いたい。